記憶の中の写真 43

渋谷4 (2023/5)

 

 

写真、カメラ関係を趣味にしているとそれに関連するサイトをよく見に行く。

 

特にyoutubeなどは興味深い内容も多く、頻繁に見に行く。

 

そこでちょくちょく話題になっているのが、どのようなカメラを買えばいいかという疑問に対する回答、アドバイスである。

 

まあ、結論から言えばほとんどの場合、「好きなものを買え」、「自分に合ったものを買え」ということになっているようだ。

 

まさにそれが答えで、それ以外に言いようがないのだろうが、それで見ている人は「なるほど」、「そうか」となるのだろうか。

 

見ていて、当たり前のことを当たり前に伝えるために、何人もが同じような動画を作ってまで説明する必要があるのだろうかと訝しく思う。

 

と、憎まれ口を叩いてはいるが、自分の撮りたい写真に合わせてカメラ機材を選ぶ必要があるというのはその通りだ。

 

最近益々、カメラ機材によって撮れる写真が違ってくると感じている。

 

それは、機材の画素数とか、色合いだとか、高感度性能といったものではなく、もっと基本的な機構そのものの違いによるものだ。

 

ここ最近、光学式ファインダーの付いたデジタル一眼レフや電子ビューファインダーのミラーレス、またはファインダーのないミラーレス機なんかを気分次第で色々使って写真を撮っている。

 

同じように街をぶらつきながら写真を撮っても、そこで出来上がる写真そのものに大きな違いがある。

 

光学式ビューファインダーのある一眼レフで写真を撮ると、ビューファインダーをしっかりと覗きながらシャッターを押すので、全体の構図に意識が行くのだろう。自分なりに構図をよく考えた写真になっていると思う。

 

ビューファインダーの無いミラーレス機で撮ると、背面の液晶画面と目の前の被写体とに交互に視線を投げかけながらシャッターを切ることになるので、構図よりもシャッタータイミングを意識した写真になっているようだ。その分、全体として構図が粗くなっている。

 

一眼レフに戻ってスナップ写真を撮っていると、ついビューファインダーの無いミラーレス機の時のように、ファインダーから目を外して撮ってしまったりする。そうなると背面液晶に被写体が映らないので完全にノーファインダー撮影になる。構図どころか、被写体がどこに入っているのか分からないし、それどころか画面に入っているのかどうかさえおぼつかない。構図なんて全くいい加減で、タイミングだけでシャッターを押した写真になる。

 

そして先日、渋谷でスナップ写真を撮っている最中に一眼レフのカメラのシャッターが壊れてしまった。何回かに一度、シャッターエラーが出てシャッターが切れなくなった。

 

仕方がないので我慢して撮影を続けていると、状態は悪くなる一方で、今度は何回かに1回程度シャッターが切れるという状態になった。

 

こうなるともう、構図どころかタイミングさえあったものではなく、やみくもにシャッターを押し続け、たまたま何回かに一度シャッターが切れた写真が出来上がるという始末だった。

 

自宅に戻ってファイルを開いてみると、ファインダーを覗いて構図をしっかり考えて撮った写真は、構図としてのパランスは良いのだが、写真の中で世界が完結してしまって、空間の広がりや動きが感じられない静的で窮屈な写真になっている。

 

背面液晶と被写体を見ながら、構図とタイミングの双方を適度に考えて撮った写真は無難なのだが、自分にとって見飽きたいつもの写真になっている。

 

そしてやみくもにシャッターを切った(切れた?)写真は、動的で広がりがあり、自分でとったことのないような新鮮な写真になったのだが、写真としての完成度は低いようだ。

 

カメラ機材によって撮れる写真が変わることが楽しくて、スナップに持ち出す機材を色々変えてばかりで、一向に方向性が定まらない。