記憶の中の写真 70

45年後の異邦人 (2024/03/22)

Olympus OMD E-M1 25mm f1.7

Olympus OMD E-M1 25mm f1.7

 

”子供たちが空に向かい両手をひろげ
鳥や雲や夢までも つかもうとしている
その姿は きのうまでの何も知らない私
あなたに この指が届くと信じていた
空と大地が ふれ合う彼方
過去からの旅人を 呼んでいる道”

 

”市場へ行く人の波に 身体を預け
石だたみの街角を ゆらゆらとさまよう
祈りの声 ひづめの音 歌うようなざわめき”

             「異邦人」久保田早紀

 

1979年、久保田早紀さんの「異邦人」という楽曲がヒットを飛ばした。

 

これまでになかったような異国情緒あふれる曲調が、若くて美しい久保田早紀さんの容姿と相まってとても印象深く記憶に残った。

 

その45年後の2024年3月、僕は初めてアフリカ大陸北西、イスラム文化圏に属するモロッコマラケシュを訪れた。

 

そこは狭い迷路のような道を荷物を載せた荷車をロバが曳き、多くの人が行きかい、バイクが勢いよく走り回る街だった。

 

僕が訪れた時はラマダン(断食月)にあたっていたが、街には活気があふれていた。

 

毎日朝の5時と正午、午後と夕方、そして夜の8時にはお祈りの合図となるアザーンといわれる声が街中に響き渡った。

 

けたたましく走り回るバイクと店の呼び込みの声、路地を駆け回る元気な子供たち、その中を観光客に交じって歩いていると、昔耳にした久保田早紀さんの「異邦人」が脳裏に蘇っていた。

 

Olympus OMD E-M1 25mm f1.7

 

 

 

記憶の中の写真 69

観光客の上野駅 (2024/02/26)

 

Olympus OMD E-M5 25mm f1.7

上野駅はかつて北の最果ての地への始発駅という印象を持っていた。

 

関西住まいだった僕にとって、上野駅は西に向かう東京駅と並ぶ北へ向かう東京を代表する2大ターミナル駅の1つだった。

 

上野駅は、活気はあるのだが、何か哀愁を感じる駅だった。

 

子供の頃、春になると、上野駅の「集団就職」や「金の卵」といった話題が新聞やテレビのニュースを賑わせていた。

 

それら映像と記事は、集団就職の子供たちの将来の成長と日本経済の成長を重ね合わせて希望と期待を抱かせて、そして生まれ故郷を離れ見知らぬ地で社会人としての人生のスタートを切る若者たちやその親御さんたちの不安と心配、寂しさと悲しさも映していた。

 

その後の人生において故郷に錦を飾る人たちがいる一方、東京の地を夢半ばで離れる人たちもいたことだろう。

 

上野駅は、東京を離れるそのひとたちが最後に残していく数々の記憶や想いが、哀惜や哀愁として漂っているような気がしていた。

 

現在、日本経済の成長は止まり、停滞し始め、上野駅は北に向かう東京のターミナル駅としての役割も東京駅に譲り、かつての勢いは失われ、ニュースに取り上げられることも減った。

 

そして上野駅は、上野駅-御徒町間のJR高架西側のアメヤ横丁、上野中通り商店街などを訪れる海外からの観光客で溢れる様になり、かつての上野駅の様は大きく変わっていった。

 

それでもアトレの1階ホールから中央改札を隔てた車止めの先に停まっている高崎線の車両が目に入った時には、記憶の中の哀愁のターミナル駅としての上野駅が蘇った。

 

現在、上野駅近辺は立ち飲み屋、路上の屋台、ガード下の居酒屋で飲み食いをしたり、商店街で買い物をしたり、SNSに映える写真スポットで記念写真を撮ったりする観光客の姿で溢れている。

記憶の中の写真 68

三軒茶屋のスナップ  (2024/03/09)

Canon EOS 50D 18-55mm

重くて嵩張る一眼カメラを肩から下げて、そのためだけに町へ出かけ趣味のスチル写真を撮っている。

 

写真の撮影枚数が増えてくると保存のための大容量のストレージがどんどんと必要になってくる。

 

SDカードやHDD容量が不足するたびに、容量を大食いする2,000万画素以上、4,000万画素とか6,000万画素とかのカメラが必要なのだろうかと考える。

 

スマホの写真機能が高くなり、加えて一眼カメラの動画機能が向上してくると、図体の大きな一眼カメラでわざわざスチル写真を撮ることの必要性と意味合いが薄くなってきているように感じる。

 

画面で見るなら4Kで約800万画素、6Kで約1,900万画素、8Kでさえ3,300万画素あれば画素数としては足りるらしい。

 

印刷するならA4であれば900万画素、A3であれば1,400万画素、A3ノビで1,600万画素あればよいとされている。

 

大きく引き伸ばすことが求められるポスターにしてもビルボード広告にしても、離れて見るものだから1,600万画素以上は必要としないらしい。

 

とすると今やスマホのカメラ機能で充分だし、動画からのデータの切り出しで充分だということになる。

 

しかし、スマホに関しては、撮像素子の大きさやスマホの厚さからくる限界で、望遠機能やアウトフォーカス部分のボケがもう一つ物足りないと感じてしまうし、撮影体験そのものが何かのおまけのような気分になってしまう。

 

そうすると一眼カメラを持ち歩く理由は動画を撮影し、スチル写真は必要に応じて動画から切り出せばよくなって、動画のおまけのようなものになるのだろうか。

 

動画を見るときには同時に映っているもの全てを見ることはできない。視点の動きとともに時間が流れ、映像が流れていく。一瞬に細部を細かく観察し認識することができない。

 

映像は過ぎ去った世界の再現をするのだが、動画を見ることは後から過去を追体験をするようなもので、その時には見なかったところを見たりできるのだが、そこではまた時間が流れ、映像が流れていき、細かく他の細部を観察し、認識することができない。

 

時間に押し流されて、立ち止まって世界を見ることができない。

 

スチル写真の特殊性、動画にはない価値は、時間軸に対して平面であることだと思う。

 

スチル写真は、立ち止まって、時間から切り離された世界の瞬間を細部にわたってじっくりと観察することができる。

 

そこには瞬間の豊かな世界の溢れんばかりの情報に触れることができる。

 

日常では見逃していくハプニングやインシデントだけではなく、コインシデンスやシンクロニシティーに気づき、セレンディピティーに触れることができるかもしれない。(なんのこっちゃ)

 

素数が多ければその瞬間の情報は多くなり、一層豊かな瞬間に触れることができるようになる。

 

ひょっとするとこの先、スチル写真が10億画素、100億画素になって、そのような情報の溢れた瞬間の世界に魅了され、その世界に迷い込むことになるかもしれない。

 

記憶の中の写真 67

バスケットボールストリート (2024/02/02)

Nikon D300 17-50mm

Nikon D300 18-55mm

Nikon D300 17-50mm

Nikon D300 17-50mm

渋谷駅近辺で最も人通りの多いエリアの一つにセンター街があげられる。

 

JR渋谷駅ハチ公口を出て、スクランブル交差点を北西方向斜めに渡ったところから250mほど続くセンター街のメイン通りは「バスケットボールストリート」と名付けられた。

 

ところが2011年に名付けられたらしいのだが、この呼称は13年近く経った今でもほとんど定着していないように見受けられる。

 

渋谷には他に意図的に名付けられた通りや坂があるのだが、それなりに定着しているようだ。

 

1972年の「公園通り」や1975年の「スペイン坂」などはその代表になるのだろう。

 

歩いてみると確かに、渋谷から代々木公園までを結ぶ垢ぬけた通り道だったり、スペイン料理の店のある異国情緒の漂う坂だったりして、名前がよく似合っている。

 

バスケットボールストリート」は、渋谷センター街をより安全でクリーンな若者の通りにイメージチェンジをすることを狙いとしたらしいのだが、ここを歩いていてもバスケットボールを連想させるところが見当たらない。

 

通りに面して比較的安価な全国チェーンの居酒屋やラーメン店、カラオケボックスやレストランがひしめき、イメチェンの意図は分るのだが、いまいちピンとこないことが定着しにくい要因のように思える。

 

初めてこの通りを訪れた時には色々と有名な「渋谷センター街」ということで、少し気を張っていたのだが、今ではインバウンドの客の一大観光スポットである渋谷スクランブルから流れてくる外国人観光客であふれかえり、完全に観光客の通りになっているようで心配せずとも安全上の問題はなさそうである。

 

写真は日没以降のもので、意図せずに一層バスケットボールの雰囲気は微塵も感じられないものとなってしまった。

 

記憶の中の写真 66

オルガン坂 (2024/01/22)

Nikon D300 18-200mm

Nikon D300 18-200mm

Nikon D300 18-200mm

渋谷には道玄坂宮益坂、井の頭通や公園通りといった全国的にもある程度名の通った坂道や通りがいくつかある。

 

地名と場所が一致するようになる場合、その土地を訪れて名前を憶えるのが普通だが、TV番組やニュースの記事、雑誌やSNSで先に名前を憶えた後、その場所を訪れて地名と場所が一致する場合もある。

 

有名な観光地だったり、憧れの場所だったり、悪名高い場所だったりすると後者のケースが当てはまったりする。

 

先に地名を憶えた場所に訪れる場合、自分の抱いていたイメージと照らし合わせながら、「へぇ、こんなところなんだ」、「ああ、思っていた通りだ」なんていう色々な思いが交錯して楽しい。

 

私も初めて渋谷を訪れた時は、事前に道玄坂やセンター街といった地名を知っており初めて訪れた時にはそのような感情を持った。

 

片や井の頭通りを渋谷駅と反対方向の北西に歩き、ハンズを過ぎたところで東に曲がった坂道にオルガン坂という名前があることを知ったのは、この坂道を何度も歩いた後だった。

 

そんなに長くもなく、急でもない坂道に名前がついているのは渋谷らしいのだが、名前の由来ははっきりしないらしい。

 

音楽関連のお店が多かったという話や、そこにある階段がオルガンの鍵盤のようにみえるからという話があるようだが、どちらにしても「オルガン」という楽器の名前を持ち出して、名付けるような坂に思えないのは、僕がひねくれているからかもしれない。

 

記憶の中の写真 65

ヤンゴンの街角5  (2017/9/20)

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

ミャンマーでは、他の東南アジアの国々同様、あまり海の魚を食べない。

 

レストランでも川魚がメニューとして出てくることが多い。

 

僕は日本では清流に住むアユやヤマメ、イワナやアマゴといった川魚の塩焼きは好んで食べるが、コイなどの池や淀みに住む魚はその泥臭さが嫌いなので食べたいとは思わない。

 

ヤンゴンのレストランで出てくる川魚はイラワディー川の魚のようで後者にあたるらしく、できる限り選ばないようにしていた。

 

一方、海の魚介類はというと、歴史的に海洋漁業が盛んではなかったことから、豊富な水産資源が手つかずで、大変恵まれているそうである。

 

しかしながら、経済的に豊かではなく、エネルギー資源に恵まれていないミャンマーでは、漁船に積む氷を作る製氷能力に乏しく、漁船があったとしても魚を獲ってくることができないらしい。

 

熱帯地方に位置するミャンマーでは、船で獲った魚を漁港に戻るまでの間氷につけておかないと、その間にすぐに腐ってしまうらしい。

 

結局、これまでの食習慣と漁船の氷の問題で、レストランでメニューにのる魚は相変わらず川魚が主体となっているようで、僕は肉と野菜の料理ばかり選ぶようにしていた。

 

記憶の中の写真 64

渋谷 by night  (2023/12/09)

Nikon D300 17-50mm

 

1981年3月、僕は留学先のサンディエゴ州立大学の寮を出て、日本人留学生の男子2人とアルゼンチンとスイスからの留学生の女子2人(とウサギ一匹)で一軒の家を借りてスイートメイト(suitemate : roommateとは異なり、部屋は別で、キッチン、リビング、バスルームを共有)として生活を始めた。

 

引越して間もなく、僕は5人で一緒にリビングで時間をつぶしながらコミュニケーションを図ることを考えて、1,000ピースのジグソーパズルを買ってきた。

 

そのジグソーパズルの題名が"San Francisco by night"というものだった。

 

夜のサンフランシスコのダウンタウンの美しい空撮写真がジグソーパズルになっているもので、メンバーが時間があるときに制作にかかったが、結構時間がかかった覚えがある。

 

結局1ピースが紛失していて(ウサギが食べたとの疑惑も)最後の最後で完成しなかったが、思惑通りにコミュニケーションの場を作ってくれた。

 

英語が得意でない僕は、ジグソーパズルの題名が"San Francisco at night"ではなく"San Francisco by night"となっているところが理解できなかった。

 

アルゼンチンとスイスの2人の女子が「英語で」説明をしてくれるのだが、あまりすっきりとしなかった。

 

モヤモヤしていたが、結局そのまま受け入れることにした。

 

後になってから、その二つにある同じ意味だけれど表現し難いお互いの微妙なニュアンスの違いが何となくだけれど理解できたように思う。

 

写真は”by night"の渋谷である。