記憶の中の写真 137

憧れのカメラ (2026/05/11)

 

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

僕たちは新しいカメラが発売されそうだとの情報で、ワクワクしながらその予想スペックにあれやこれやと妄想を広げる。

 

実際に発売されるとyoutubeなどの先行レビューなどを見て、自分ならどう使うだろうかと想像をかき立てる。

 

AF性能、高速連写性能、ブラックアウトフリー、高解像度、広いダイナミックレンジ、高感度耐性、手ぶれ補正、AWB、プリキャプチャー機能など新しい性能に期待は膨らむ。

 

しかし、今のカメラは僕の写真撮影には、もう何年も前から必要以上の性能を有している。

 

それでも、何故か最新機種のスペックにはワクワクする。これは条件づけられた反応なのかもしれない。

 

僕はフィルムカメラ時代、PENTAX SV、SP、ME、MINOLTA XG-1、XE、XD、そしてLEICA M3などを手にしていた。

 

より新しいカメラ、高価な機材を手にするたびに、高性能で上質な撮影体験に舞い上がり、常に最新機能、高性能に対する憧れを募らせた。

 

そしてデジタルカメラ時代、一眼レフでPENTAX K-X、NIKON D300、D700、PENTAX K-5、K-3などを使って撮影を楽しんでいる。

 

ミラーレスになってからは、OLYMPUS、Panasonic、SONYを使っているのだが、もう何年も新しい機能が必要だとは感じなくなっていた。

 

先日、久しぶりに最新のミラーレスカメラを買っては見たものの、最新機能は僕が日頃使わない機能ばかりが充実している。確かに最新のAF性能と手ぶれ補正は助かるが、それ以外は殆ど恩恵を受けることがない。

 

では上質な撮影体験が手にできるかと言うと、そこはあまり変わり映えがしない。

 

ダイヤルやボタンのフィーリング、ボディーの手にした時の塊感、ボディー全体の表面仕上げの手触り感、細部の作り込み、ファインダーの見え方、シャッターフィーリングなど進化してるのだが、買って良かった、持っていて楽しいと思えるワクワク感は感じない。

 

メーカーが考えるカメラの進化と僕の期待する進化とは異なるのだろう。

 

これから出てくる新機種はいくら進化していようが、僕にとって必要のない機能ばかりだろうから、もう買わないと思う。

 

記憶の中の写真 136

分かりやすいスナップ写真  (2026/05/09)

 

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

sony α65 18-135mm

写真映像の表現の世界は、この2~30年ほど大きく変わり続けている。

 

少し時代を遡ると、有名なアメリカの写真雑誌のLIFE誌が1972年に週刊を取りやめ、2000年に廃刊となっている。

 

日本でも新聞社系では毎日グラフが1994年、産経グラフが1999年、アサヒグラフが2000年、読売グラフが2001年に廃刊となっている。

 

それ以外にも発刊当時話題となった写真雑誌ではFRIDAY、FLASHは継続されているが、FOCUSは2001年に廃刊となった。

 

カメラ・写真雑誌に限って見ても、カメラ毎日、アサヒカメラ、日本カメラ、カメラマン、写真工業などが廃刊・休刊となっている。

 

アメリカでも同様にカメラ・写真雑誌のPOPULAR PHOTOGRAPHY誌は紙媒体の雑誌を廃刊してネットへシフトし、MODERN PHOTOGRAPHY誌もその名前が消えてしまっている。

 

僕のような読み手からすると、残念だけどネットから代わりの情報を得られるから仕方がないと納得すれば良い。

 

しかし写真文化を作り、広げてきたプロの写真家の方々は、これまでの発表の場、仕事が消えていっているので、当然仕事の場を他のところへ広げていくことになる。

 

商業写真、営業写真、はたまたyoutubeなどのSNS、動画撮影へと仕事内容も組み替えていくとすると、それは写真を通したこれまでの創作活動とは必ずしも同じものではない。

 

写真の果たす役割、写真の持つ意味が勢いよく変質していき、これまでの写真文化が良くも悪くも消えていくのだろう。

 

時代の変化は受け入れざるを得ないし、時代に合わせて変わっていくのは当然である。

 

SNSなどに写真の発表の場がシフトしていくと、撮影者の意図や解釈を一連の写真から感じ取り、コンテクストから読み解く世界感から、誰もが一見して分かる写真へと移って行く傾向にあると思う。

 

SNSでは写真の意味する難解なコンテンツより、分かりやすい構図や配色が「イイね」の数や閲覧数に直接影響を与えている。

 

写真表現が平易で一見して分かりやすい写真へと移って行くことは、スマホでの日常の平易な撮影行為とも合致しているので、当面は広がって行くと思う。

 

将来的にもこの流れが一層広がり続けるのか、ある所でこの流れさえ廃れて行くのか、また、誰かが別の方向への一石を投じるのか、どのようになるのかは分からない。

 

どうなるにしても、これからも変化は起こり続けるのだろう。

記憶の中の写真 135

身の回りのスナップ写真  (2026/05/10)

 

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

写真家でYouTuberの矢沢隆則さんが、「『私もそこに居たら同じ様な写真が撮れる』と有名写真家に対して負け惜しみと取れる発言をする写真家がいるが、その場にいることが出来るかどうかが大切なんだ」という様な事をお話しされていた。(正確に文言を覚えてないので、違っていたら申し訳ありません)

 

まさに、そこが大切だと思う。

 

都内のマンションにいてワイン片手に、「俺もキャパと同じところにいたらキャパ位の写真は撮れる」と声高に主張しても、誰一人として「それは凄い」と言ってくれる人は居ないだろう。

 

その時、その場にいて、その瞬間、その写真を撮ったかが写真家の力量を決するので、露出や構図などの写真撮影の技量の話ではない。

 

先ず、何を撮るかが大切で、その撮影対象の前に立つことが重要で、その後、どう撮るかという話になるのだろう。

 

その撮影対象に誰よりも価値を見出し、時間やお金、人脈と人間関係を使って、その撮影対象の前に立つことが、写真家としての真価といえる。

 

そこでプロの写真家は最大限の努力をして時間とお金を使い秘境の中、都市の真ん中、戦場へと撮影機材を抱えて出向いていく。

 

しかし、昔と違って今や出向いた先に人がいればスマホがあり、そこの人たちもスマホで写真を撮っている。

 

それこそ、そのスマホで簡単に綺麗な写真が撮れ、小難しい撮影技術や技能といったものを必要としない。

 

となると、プロの写真家が多大な時間とお金を使い、わざわざ遠くまで出向いていって慣れない土地で、限られた時間の中で自らの撮影技術を発揮して撮影する価値はどこにあるのだろうか。

 

プロの写真家はどこでどうやって写真の創作活動で価値を創り出せば良いのだろう。

 

僕なんかが考えることでもないのだろうが、写真全体の意味がここでも変わりつつある様に思う。

記憶の中の写真 134

ありきたりのスナップ写真 (2026/04/25)

 

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

リチャード・ソール・ワーマンというTEDの創設者の一人によると、現在のニューヨーク・タイムズの1日分の情報量は18世紀のイギリスの平均的な人が一生の間に遭遇する情報量を上回るとのことである。

 

僕たちはかつてないほどの膨大な情報にさらされていて、日々、指数関数的にその情報量は増え続けている。

 

今やひとつひとつを考える暇もなく、次々と飛び込んでくる情報に対応するだけで精一杯の毎日といえる。

 

その結果、情報に対してどんどん受け身で受動的になっていき、こちらから能動的にアンテナを立て、情報を探しに行き、理解しようとすることが難しくなってきている。

 

結果的に、新鮮で刺激的な情報に目が行くことになり、一方で既に目にした情報、それらと類似性の高い情報、刺激の無い情報には感性が働かなくなってきている。

 

一昔前まで、知らない世界の情報、見たことのない世界の映像に出くわすとわくわくして、それらの情報や映像に関心をもって目にしていた。

 

しかし、今やそういった情報や映像は少なくなってきており、また、感性も働かなくなってきて、スナップ写真などはどんどんとありきたりな情報として捉えられていっているのではないだろうか。

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

sony α65 18-70mm

世界中のあらゆる情報が動画などで無尽蔵に溢れかえって、それらに適宜、瞬時に、簡単にアクセスできる時代に、スナップ写真がどのような意味を持つのだろうかと思う。

 

写真そのものの役割が変わってきている中で、当然、スナップ写真の位置付けや意味は変わってきているのだろう。

 

かつてはスナップ写真を見てそこから何かを感じ取ろう、読み取ろうとしていたのだが、今やわざわざありきたりに見える一枚の写真に注意を払いに行き、何かを読み取ろうとはしなくなってきている。

 

今後、スナップ写真は目の前を流れていく数あるありきたりな情報の一つとして、ますます価値が無くなっていくのだろう。

記憶の中の写真 133

何でもないスナップ写真  (2026/04/04)

 

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

OLYMPUS E-PM2 15mm

フィルムカメラ時代、素人写真は家族写真、友人などの写真、旅行写真にほぼ限られていた。

写真撮影一枚一枚に結構なコストがかかっているので、意味のない無駄な写真は撮らずに必要な写真だけを撮るようにしていたからだ。

 

一般の素人が写真撮影で、ありきたりの街角で赤の他人の「何でもない写真」を撮ることは考えられなかった。

 

もしあったら、多分フィルムカウンターを「1」まで進めるためにシャッターを切った写真だっただろう。

 

プロカメラマンの撮影現場をテレビなどで見ると、すごい勢いで何十枚も何百枚もシャッターを切っていた。

 

それを見て、金欠学生の僕なんかはカッコよく見えたし、うらやましくて仕方なかった。

 

プロカメラマンは写真撮影の一枚一枚にかかるコストより、より良い瞬間を写し取ることの方がはるかに重要だったに違いない。

 

優れた写真を撮ることで得られる利益や名声、評価の方が重要で、シャッター一枚一枚にかかるコストは微々たるものだろうし、クライアントが支払ってくれるくれるからだろう。

 

素人は写真撮影からの利益や名声、評価の獲得は当然全く見込めない。

 

そうするとコストだけが関心ごとになり、必要性が感じられない写真はお金の無駄になるので撮ろうとしない。

 

当時、僕のような一般の素人は必要性のない「何でもないスナップ写真」を何枚も撮ることはお金の無駄遣い以外の何でもなかった。

 

結局、「何でもないスナップ写真」と思われるものを目にするのは、写真雑誌などに掲載され、利益、名声を得られる写真作家の作品位しかなかった。

 

デジタルの時代になって写真撮影は大きく変わったが、その一つがこの「何でもないスナップ写真」ではないかと思う。

 

コンパクトデジカメ、デジタル一眼、ミラーレスカメラ、スマートフォン、一枚一枚の写真撮影に価格コストは限りなくゼロになった。

 

バッテリーの充電代と記憶媒体の費用しかかからず、しかもデータ消去可能な記憶媒体の費用は一枚一枚の費用としては無視できる。

 

そうすると、ほぼ全ての人がコストのかからない写真撮影ができるようになり、フィルム時代では考えられないような数の写真撮影が行われるようになった。

 

ふと気になった何気ない日常だったり、個人的にお気に入りの瞬間だったりと、それこそ「何でもないスナップ写真」が世界中で無尽蔵に生成され続けるようになった。

 

「何でもないスナップ写真」の決定的瞬間や構図や色の表現は、もはやプロといわれる人の特権ではなくなり、それこそ世界中の人々に撮影され続けている。

 

写真のデジタル化は、写真表現をそういった一部のプロの特権から世界中の人々への分散、民主化の流れを生み出した。

 

それら無秩序に生み出される膨大な写真は、一般の人々の不安や喜び、怒りや喜びを写し出し、そこに生活や世相を映し出し、社会に内在する問題、課題を反映したものになっているだろう。

 

しかし、世界中のあまりにも膨大すぎる無秩序なこれらの写真は誰からもそれをまとめて分析され、体系化され、いかような解釈もされることが無いまま放置されている。

 

この「何でもないスナップ写真」が表すものが、次のデジタル、AIの世界ではどのように形を変え意味を持っていくのかが興味深い。

 

記憶の中の写真 132

京都グラフィー 2026 開幕 (2026/04/18)

 

SONY NEX-5n 18-55mm

SONY NEX-5n 18-55mm

SONY NEX-5n 18-55mm

SONY NEX-5n 18-55mm

今年もKYOTO GRAPHIEとKG+が4月18日から5月17日の間、ひと月にわたって開催される。

 

2013年から毎年開催されているが、2011年から京都を離れ2024年の5月に京都に戻った僕は、昨年初めて会場に足を運んだ。

 

京都で催される祭りでは祇園祭に次いでこの京都国際写真祭が大きなイベントになったのではないかと思ってしまうほど大々的なものである。

 

KYOTO GRAPHIEではアート作品が、市内およそ14会場で展示されている。こちらにはそれぞれの会場で入場料が必要だが、1ヶ月を通して全ての会場を見ることが出来るパスも販売されている。

 

一方、KG+(KYOTOGRAPHIE SATELLITE)は、全部で183ヵ所ほどの入場無料の展示会場が京都市内あちこちに分かれて設営されている。

 

狭い京都市内中心部に合わせて200個所近くの展示会場があることになる。

 

しかし展示は写真だけに限ったものではなく、また、期間をずらして入れ替わりに展示するところもあるので、写真に限っての展示が同時期に200ヵ所ほどで開催されているわけではない。

 

それでも京都市内を歩いていると次から次と展示会場が目に入る。

 

この期間、京都はもう写真アート一色になってしまう感じである。

 

勿論、集中して2~3日で全て見て回るなんて事は不可能だから、調べてから狙ったところだけ見に行くか、神社仏閣を見ながら合間合間に写真鑑賞をするようにするしかないだろう。

 

これだけの写真祭りなのに、CP+に比べあまり話題になっていないと感じるのは単に僕が知らないだけだろうか?

 

写真文化を京都から、日本から発信し広めると言う大切で価値あるイベントだと思うのだが、スポンサーとなっているカメラメーカーはSIGMAとFUJIFILMだけと言うのも残念な気がする。

 

この2社以外のカメラメーカーも最新機材の紹介、販促の横浜CP+には積極的に協賛しているのだから、写真文化を発信するKYOTO GRAPHIEにも協賛してくれると嬉しいと思う。

 

あまり商業ベースになるのはKYOTO GRAPHIEの方針にそぐわないのかも知れないが、もっと発信力が高まることを期待している。

 

これは何もカメラメーカーだけに期待することでも無い。

 

例えば、横浜で開催されるCP+をインフルエンサーはyoutubeなどで取り上げて、最新機材を次々に紹介しyoutubeを賑わせているが、KYOTO GRAPHIEを話題にしたサイトを見ることはあまりない。

 

最新機材の紹介に比べ、視聴回数が稼げないからなのか、依頼や問い合わせがないからなのか、ただ単にメリットがないからなのか、それとも話題にするだけの情報や知識がないからなのか。

 

ひょっとすると、もともとカメラ機材には関心があるが、写真アートには余り関心がないのかも知れない。

 

写真文化が広がり、豊かなものにならなければ将来的に写真機材は売れなくなるのではと危惧している。

 

写真文化が失われれば、AIで映像を作るだけでかたがつく未来になりそうだ。

記憶の中の写真 131

フィルムカメラのようなデジタルカメラ (2026/3/23)

 

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

ここのところフィルムカメラのようなデジタルカメラがいくつも出てきて、結構人気があるらしい。

 

このフィルムカメラのようなデジタルカメラというのがメーカーによって捉え方が違っているようで、画素数が極端に少ない撮像素子だったり、CCDセンサーだったり、背面液晶がなかったり、巻き上げダイヤルがあったり、撮り終えるまで画像が見れなかったり、なんとなれば24時間後でないと画像が見れないというものまで出ているようだ。

 

それでも、なんとなく撮った写真がすぐに見れないということが、フィルムカメラのデジタルカメラと一番異なるところという認識が一般にあるように思われる。

 

シャッターを切った後、どのような写真が撮れたかは分からず、DPEショップで受け取るときに初めて見て確認できる。

 

その時のドキドキ感がフィルム撮影特有の強い印象として残っているから、それが心理的にフィルム撮影と紐づいているのだろうと思う。

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

canon EOS 8000D 50mm f1.8

僕の持っているCANON EOS 8000Dは壊れていて背面液晶が映らない。

 

多分、液晶のフレキシブルケーブルがソケットから外れているのではないかと疑っているのだが、不器用な僕は手を付けるのを後回しにしていた。

 

youtubeのメステクカメラというサイトを好きでよく見に行っている。

 

そこで最近発売されたフィルムカメラ的なデジタルカメラの話を見て、そういえば僕のEOS 8000Dは背面液晶が映らないので、考えようによっては最近流行りのフィルムカメラ的デジタル一眼レフとして使えると考えた。

 

CANON EOS 8000Dは、軍幹部の右上に設定状態が見える液晶LCDがあるし、基本的な設定はダイヤルとボタンで右上のLCDを見ながら操作できる。

 

実際に撒き餌レンズと言われる50mmf1.8をつけて撮影に出かけてみた。

 

フィルム時代は、入れたフィルムが巻き取られていなかったり、そもそもフィルムを入れ忘れていたり、ASA感度を変更し忘れていたりとミスすることが多かった。

 

また、キャップをしたままシャターを切って何枚も露光していないネガを作ったり、ブローニーフィルムの場合は巻上げを忘れてシャッターを切り、二重露光をして折角撮った写真を駄目にしたりしていた。

 

露出ミス、ブレ、ボケ、アレは日常茶飯事。一本のネガにそんな写真が一枚もない事の方が珍しかった。

 

デジタルの時代になると、そんなフィルムカメラ時代のミスは昔話になってしまった。

 

シャッターを切って直ぐに出来栄えが確認出来るし、その場での取り直しも出来る。

 

この日のEOS 8000Dは、その確認が出来ないがフィルム時代とは根本的に違う。

 

正直、特に困ることはなかった。

 

CANONのフォーカシングと露出、ホワイトバランスは信頼できるので、一々確認できないからいって何も不安を感じることもなかった。

 

ただ一方で、残念ながら家に戻ってPCで写真を開いてみる時に、ドキドキすることもなくいつもの撮影と大きくは違わなかった。