記憶の世界の解像度 (2024/05/03)
僕のような年季の入った人間は、画質の荒い、色褪せたような写真を見ると何故かしらノスタルジーを感じる。
それは少し大人になって見返した子供の頃の色褪せたカラー写真の記憶や、小学生の頃、夏休みの夜に近くの公民館で見た映写会での8mm映写機による映像と重なるからかもしれない。
今となっては、僕たちの周りの写真や動画は、高性能になったスマホやデジタルカメラのおかげで飛びぬけて高解像なものばかりになった。
近年、フィルムカメラのブームが起こったり、オールドデジタルコンデジといわれる100万画素~1,000万画素の今となっては低解像度のコンパクトデジカメの人気が出たりしているのは、このノスタルジックな雰囲気に惹かれてなのかと思った。
しかし、このブームの中心にいるのは僕のような年季の入った人間ではなく、若い人たちによるものだそうである。
このブームをけん引している若い人たちは、色褪せた解像度の低いプリントされた写真や8mm映写機の動画など見たこともない人たちだろう。
彼ら彼女らに言わせると「エモい」ということだが、それは彼ら彼女らの琴線のどこかに触れ、共鳴しているからだろうと思う。
それが何なのかは年季の入り過ぎた僕なんかが知る由もないが、写真家の誰かがyoutubeで「記憶の解像度は高くない」という発言をしていた。
僕たちの記憶の中の過去の世界は、昔に見た色褪せたプリント写真や低画質の8mm映写機の映像の記憶とは無関係に、低解像度の映像として刻み込まれているのかもしれない。
そして、昔のフィルムカメラやオールドデジカメの映像が、記憶の中の低画素の世界の映像と合致し、映像とともにそれにまつわる数々の感情を呼び起こすのかもしれない。