記憶の中の写真 68

三軒茶屋のスナップ  (2024/03/09)

Canon EOS 50D 18-55mm

重くて嵩張る一眼カメラを肩から下げて、そのためだけに町へ出かけ趣味のスチル写真を撮っている。

 

写真の撮影枚数が増えてくると保存のための大容量のストレージがどんどんと必要になってくる。

 

SDカードやHDD容量が不足するたびに、容量を大食いする2,000万画素以上、4,000万画素とか6,000万画素とかのカメラが必要なのだろうかと考える。

 

スマホの写真機能が高くなり、加えて一眼カメラの動画機能が向上してくると、図体の大きな一眼カメラでわざわざスチル写真を撮ることの必要性と意味合いが薄くなってきているように感じる。

 

画面で見るなら4Kで約800万画素、6Kで約1,900万画素、8Kでさえ3,300万画素あれば画素数としては足りるらしい。

 

印刷するならA4であれば900万画素、A3であれば1,400万画素、A3ノビで1,600万画素あればよいとされている。

 

大きく引き伸ばすことが求められるポスターにしてもビルボード広告にしても、離れて見るものだから1,600万画素以上は必要としないらしい。

 

とすると今やスマホのカメラ機能で充分だし、動画からのデータの切り出しで充分だということになる。

 

しかし、スマホに関しては、撮像素子の大きさやスマホの厚さからくる限界で、望遠機能やアウトフォーカス部分のボケがもう一つ物足りないと感じてしまうし、撮影体験そのものが何かのおまけのような気分になってしまう。

 

そうすると一眼カメラを持ち歩く理由は動画を撮影し、スチル写真は必要に応じて動画から切り出せばよくなって、動画のおまけのようなものになるのだろうか。

 

動画を見るときには同時に映っているもの全てを見ることはできない。視点の動きとともに時間が流れ、映像が流れていく。一瞬に細部を細かく観察し認識することができない。

 

映像は過ぎ去った世界の再現をするのだが、動画を見ることは後から過去を追体験をするようなもので、その時には見なかったところを見たりできるのだが、そこではまた時間が流れ、映像が流れていき、細かく他の細部を観察し、認識することができない。

 

時間に押し流されて、立ち止まって世界を見ることができない。

 

スチル写真の特殊性、動画にはない価値は、時間軸に対して平面であることだと思う。

 

スチル写真は、立ち止まって、時間から切り離された世界の瞬間を細部にわたってじっくりと観察することができる。

 

そこには瞬間の豊かな世界の溢れんばかりの情報に触れることができる。

 

日常では見逃していくハプニングやインシデントだけではなく、コインシデンスやシンクロニシティーに気づき、セレンディピティーに触れることができるかもしれない。(なんのこっちゃ)

 

素数が多ければその瞬間の情報は多くなり、一層豊かな瞬間に触れることができるようになる。

 

ひょっとするとこの先、スチル写真が10億画素、100億画素になって、そのような情報の溢れた瞬間の世界に魅了され、その世界に迷い込むことになるかもしれない。