記憶の中の写真 55

写真と文章

 

 

 

 

かつては、文章と写真の両方が載っている写真集が好きだった。

 

写真作家の行った先々の自分にとって未知の世界、感じた世界などが写真だけではなく、文章からも伝わってきて、より鮮明に疑似体験できたからだと思う。

 

文章が主役で写真が補足する写真集であっても、写真を文章で解説する写真が主役の写真集であっても、どちらでも良かったし、好んで見ていたと思う。

 

写真一枚一枚に付けられたタイトル/題名でも、それを見ることによって写真の解釈の仕方を示唆してもらえるので、理解の手助けになっていた。

 

ところが、最近ある写真展を見に行って、写真に付けられた題名と文章が煩わしく感じた。

 

特段不適切な題名が付けらている訳でもないし、無意味な題名が付けられている訳でもないのに、題名と説明文を邪魔に感じたのである。

 

鑑賞者は写真と向き合って、その写真からいろいろなことを感じながらイメージを膨らませ、思考や想像を巡らせ浮遊させているのだが、その浮遊状態から題名や解説文よって一気に着地点に叩きつけられる感覚になった。

 

確かに、題名を見るたびに、「ああそういう写真なんだ」、「そういうところで、そういう意味で撮ったんだ」との理解は進む。

 

写真を”正しく”理解するのにはコンテクストが必要であり、そのために文章が必要になることは分るのだが、写真そのものと対峙し、そこから見えてくるものを見ようとしている時に、解答を見せられた気分になった。

 

そして、その解答が「あれっ?」、「そうなの?」、「それを伝えたかったの?」と思ったときに、題名で解答を見せるやり方と解答の内容そのものに違和感を感じたのである。

 

そして、自分の描いたイメージと異なった解釈、思っていた作品とは違った解釈の写真だったという残念な印象を抱いたのである。

 

自分なりに解釈したというより、作者の意図に沿って解釈させられたという気持ち。

 

勿論、自己満足のだれの目にも触れないチラシの裏と同程度のブログ写真には当てはめるつもりもないのだが、写真作家の作品としての写真に抱いた感情である。

 

作家の作品と向き合うときに、作者から切り離されたはずの作品そのものが示唆する世界、与えるインパクト、引き起こす感情に、作家の思いや解釈が言葉となって介入してくることが煩わしく感じてしまったのかもしれない。

 

とはいえ、今後も好きな写真集の文章は一所懸命目を通すのだと思う。

 

かつては三軒茶屋に4件あった映画館も、この三軒茶屋シネマの閉館を最後に三軒茶屋から全ての映画館が消えた。(2011年12月25日)

三軒茶屋シネマは1954年に三軒茶屋東映として開館する。1997年に三軒茶屋シネマと改称して営業を続けるが、2014年7月20日、建物の老朽化もあり閉館となる。(2011年12月25日)

最後まで営業を続けてきたもう一軒の映画館が、三軒茶屋中央劇場である。こちらも2013年2月14日をもって閉館をする。(2011年12月25日)

 

1952年に開業した三軒茶屋中央劇場は近年ミニシアター系の作品を中心に週変わりの2本立てで上映していた。(2011年12月25日)