写真の中の記憶 Ⅵ

クレージードーム (2017/08/17)

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

1980年12月、僕は生まれて初めて海外、米国カリフォルニア州サンディエゴ空港に降り立った。

 

僕を含めたサンディエゴ州立大学エクステンションに留学するツアーメンバー5人を夜の空港まで迎えに来てくれたのは20歳の日本人留学生の女の子とサニーと名乗るイラン人の彼氏だった。

 

日本人の女の子は高校生の時から米国に留学してきており、英語はベラベラで、乗ってきた車はボンネットに黒の不死鳥が大きく描かれたクリーム色のファイアーバードだった。

 

英語が得意ではなく米国の生活に内心気後れしていた僕は、英語も不自由なく話せ、あまりにもアメリカナイズされバイタリティー溢れた小柄でかわいらしいその彼女を見てコンプレックスを抱くほどだった。

 

彼女と彼氏のサニーの車に乗せられて、僕たちはカリフォルニア州立大学の寮へと連れていかれた。

 

既に夜遅くになっていたので、その日は入寮手続きだけを済ませてルームメイトになる日本人留学生と2人で部屋に入って就寝した。

 

サンディエゴ州立大学はサンディエゴ国際空港から北東へ10kmほど内陸に入ったところにあるカリフォルニア州立大学23校の中の一つである。

 

僕たちが住むことになったエル・コンキスタドールという物騒な名前の寮は、サンディエゴ州立大学が直接経営する寮ではないらしく、私設のクレージードーム(いかれた寮)とよばれるとんでもないところだった。

 

他のアパートに住んでいる学生やホームステイをしている学生から、その寮に入った学生は卒業できないというジンクスがあると注意された。(その後直ぐに単なるジンクスなんかではないその理由が理解できた)

 

この寮ではどんちゃん騒ぎや夜中のぼや騒ぎなどは日常茶飯事、食堂ではフードファイト(大食い競争ではなく、食器に入った食べ物を皆で投げ合ってぶつけ合う)や仮装大会(部屋のドアの下から仮装指示のメモが入ってくる)など、もう毎日がパーティー状態でハチャメチャの連続だった。

 

9階建ての寮は、男子学生と女子学生がフロアーごとに分けられていて、僕のいた8階のフロアーの下の階に女子学生のフロアーがあった。

 

自分の部屋に戻る途中、エレベーターが途中の女子学生の階で止まると、エレベーター前のフロアーでいつも十数人の女子学生がジャズダンスやエアロビクスをやっていて、エレベータの到着のピンポンという音とともドアが開く度に、女子学生全員の視線を浴びて大変気まずい思いをしたりもした。

 

寮にもプールがあり、サンディエゴの気候のせいでその年のクリスマスイブには寮のプールで泳ぐ学生が数多くいることにも驚かされた。

 

屋内にはまるでゲームセンターさながら卓球台、ビリヤード台、ピンボールマシン、それにビデオゲーム機なども備え付けられており、休みの日など寮の中で時間をつぶすことができた。

 

入寮の翌日からはエクステンションの入学手続きとクラス分けの試験が始まり、それからは毎日、寮の前のモンテズマロードを挟んだ反対側にある大学の校舎に足を運んだ。

 

僕はここで、この後の米国生活の仕方と英会話を学んだ。

 

さすがに大学院の受験が控えていたので、この「スペインからの征服者」という名の寮は3か月で出ることにして、近くの一軒家を借りて日本人留学生の男子2名とスイスからの女子学生、アルゼンチンからの女子学生の計5人でシェアーすることにした。

記憶の中の写真 62

浅草 (2005/3/6)

 

CASIO QV-R51

CASIO QV-R51

CASIO QV-R51

CASIO QV-R51

京都に住んでいる時、東京の仕事の定宿は浅草に決めていた。

 

特に浅草に対する強いこだわりがあった訳ではなかったが、仕事先の立地とホテルの取りやすさから浅草に決めていた。

 

勿論、仕事上の利便性だけではなく、飲食や買い物にも便利で全く不満に感じることはなかった。

 

浅草は三社祭ほおずき市隅田川花火大会にサンバカーニバル、酉の市、羽子板市とイベントも多く、一度は見に行こうと考えていたけれど、結局仕事で滞在する日と合わなかったのか、忙しくて余裕がなかったのか、一度も見に行くことはなかった。

 

そういうこともあって、僕は本当の浅草の魅力をまだまだ分かっていない。

 

浅草はかつては東京を代表する一番の歓楽街であったがその主役が他の街に移ってしまい、昭和で時代が止まっている風情があり、盛況が去った悲しさや侘しさのようなものも感じる。

 

この寂しさや侘しさは、規模も今の盛況度合いも違うし、街全体が持つ雰囲気も全く異なるのだが、どこかかつての盛況が去った大阪の新世界や神戸の新開地、京都の新京極に相通ずるものがあるように感じる。

 

浅草に足を運ぶと、昔の日本を感じるので落ち着くところと、まるで昭和のアミューズメントセンターのようなワクワクするところがある。

 

記憶の中の写真 61

渋谷の上 (2023/12/3)

Nikon D300 17-50mm

Nikon D300 17-50mm

Nikon D300 17-50mm

気が付けば、ここ何年かで渋谷は高層ビルだらけになった。

 

少し前までは渋谷の空はもっと広く、見上げると広い空があった。

 

今では空はずっと狭くなり、ビルの合間から空を見上げることになる。

 

渋谷の街は人であふれかえり、見慣れぬ目新しいビルが立ち並んでいるが、それでも上を見上げるといつか見た空がある。

 

天気の良い日などは、真っ青な空とそこに浮かぶ白い雲が、遠い子供の頃の記憶と感情を蘇らせる。

 

最近、時間に追い立てられている僕は渋谷で意図して空を見上げていたりする。

 

Nikon D300 17-50mm

記憶の中の写真 60

ヤンゴンの街角4  (2017/9/20)

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

Sony α7m2 FE28-70mm

 

ミャンマーの人たちを外見上特徴づけているものに、ロンジーという巻きスカートとサンダルがある。

 

加えて、あまりに日差しが強いので頬に塗っているタナカもミャンマーの人たちの外見的な特徴の一つだろう。

 

タナカを女性や子供たちが頬に塗っているのは、このタナカに日焼けや虫刺されを防ぐ効果があるとされているかららしい。

 

タナカを塗っている理由を訊いてみると、一様にこの「効果があるとされている」という答えを聞くのだけれど、どうやらしっかりとしたデータに基づくものではないらしい。

 

まあ、こういった古くから(2000年以上の昔かららしい)の風習や伝統に科学的な根拠を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。

 

そして、ミャンマーでは日傘を差している姿もよく見る。

 

日本でも最近は男性で日傘を差している姿を見るようになってきたが、ミャンマーでは日傘を差している男性は遥かに多い。

 

ミャンマーで日傘を差す人の割合は他の東南アジアの国の人たちと比べてもずっと多いようなので、これは単に気候のせいだけではないようだ。

 

今から四半世紀以上前の1997年に訪れた際にも、日傘を差している人が多かったという印象が強く残っている。

 

このタナカや日傘で日差しから身を守るというのもミャンマーの文化の一つなのだろう。

記憶の中の写真 59

掛け替え (2009/01/20)

Pentax K-x 18-55mm

 

都内で生活をしていると自然との距離が遠くなったと感じる。

 

近くに山や海がないエリアだけに一層その感が強い。

 

どこまでも広がる平野に延々と続く住宅街や商業地、こちらに転居してきた当初はそのどこまでも建物が延々と続く平地に圧倒された覚えがある。

 

京都市内に住んでいた時は、もう少し身近に自然を感じることができた。

 

海は近くになかったが、東、北、西と三方を山に囲まれ、市内を鴨川や桂川が流れていたことで自然を目にする機会が多かったからかもしれない。

 

加えて、京都に住んでいるともっと身近に季節を感じることができたように思う。

 

京都には季節の風物詩、歳時がすごく多かったように思う。

 

京都の市民が、街全体が、季節に歩調を合わせて動いているように感じられた。

 

東京では、春の花見、夏の花火、秋のハロウィンや冬のイルミネーションなどはあるが、住民の生活は季節以外のものの力によって独自に動いている感覚を抱いてしまう。

世田谷線 SG05

世田谷駅

Nikon D300 28-300mm

Nikon D300 28-300mm

東急世田谷線世田谷駅である。

 

あたかも東京都世田谷区の中心だと主張している様な駅名である。

 

ところが、東急世田谷線の中でも乗降客数10駅中7番目、1日乗降客数が7,000人を割る無人駅である。

 

生まれも育ちも西日本の僕でも東京都世田谷区というのは東京を代表する高級住宅地がある都会だと知っていた。

 

それが相対式ホームの無人駅で、2両編成の車内改札の電車が走る駅だと知った時にはかなり驚いた。

 

現在の東急世田谷線は1925年、玉川電気鉄道玉川線(渋谷~二子玉川)の支線として三軒茶屋駅から下高井戸駅までの間を玉川電気鉄道下高井戸線として開業した。

 

開業時の路線名からして、玉川線の三軒茶屋からこの世田谷駅近隣の利用を考えての開業ではなく、下高井戸との間の利用を狙って開業したことが分かる。

 

下高井戸線は1925年5月の全線開業に先立ち、1月に三軒茶屋駅からこの駅までの部分開業をすることにしたが、この部分開業で設置した駅の名前を決めるのに決め手を欠いたのではないだろうか。

 

そこで、当時の世田谷町の町役場が近隣にあったので世田谷駅としたのだろうと想像する。

 

しかしながらこの駅は現在の世田谷区役所や世田谷城址、世田谷代官屋敷といった当時からの世田谷を代表するような所への最寄り駅というわけでもない。

 

当時の世田谷町はいまの世田谷区ほどの知名度もなく、その後世田谷区になってからも「耕せ」区と揶揄されるほど当時の東京市の中でも田舎だったらしい。

 

地域は発展し地名は全国的に有名になったが、この世田谷駅は相変わらずということだろうか。

 

記憶の中の写真 58

冬へ (2023/11/12)

Nikon D300 18-70mm

Nikon D300 18-70mm

Nikon D300 18-70mm

Nikon D300 18-70mm

Nikon D300 18-70mm

気候変動のせいで、日本は亜熱帯化して四季が無くなるといわれていた。

 

これまでの春夏秋冬から夏と冬だけの気候になるのではないかと。

 

2013年11月、1週間ほどの間に秋を飛ばして夏から冬に変わった。

 

この日、日中でも気温は12℃程までしか上がらず、例年の12月中旬並みの気温になった。

 

北海道では50cmの積雪があり、日本中駆け足でやってきた冬の寒さに震える一日となった。

 

渋谷のショップでは早すぎるクリスマスソングを流すところが出てきて違和感を感じていたが、この日は流れるクリスマスソングと街ゆく人の服装やショーウィンドーのディスプレーがマッチしていた。

 

2つの季節しかなくなった東京に、季節の移り変わりがやってきた。